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手を握りしめる

 

アンサンブルVPOの練習に向かう東海道線の中で、なんとなく手にした遠藤周作氏の本の中に、同名タイトルのエッセイを目にしました。


      「なになに、『手を握りしめる』?あの女優さんと手をとりあえたら・・・ぐふふ」

 

などと、年甲斐もなく邪な想像で鼻の下を伸ばしておった私だったのですが、氏のエッセイを読み進めると、たちまち鼻の下は納まり、私自身のこんな昔話を思い出しました。

 

 

 

 

 



私は、小学校3年のころ腕を怪我して、1ヶ月以上、田舎の国立病院に入院していたことがあります。
いくつかの病棟のうち、私がいた外科病棟は、国道の往来から少し離れて敷地の奥にひっそりと建っていました。
建物の4階の廊下の奥にある、6人部屋の一角が私の居住空間でした。

古い鉄枠の窓を開けて風を入れると、かすか遠くに学校の体育の授業らしき拡声器の音が聞こえ、土埃にまみれているであろう彼らの活動をなんとなく想像しながら、ベッドの上で本を読んだり、時折、算数ドリルをしたりして、のんびりと過ごしていました。

そこは整形外科の階だったので、命にかかわる重篤な患者さんはおそらくいなかったと思いますが、近くの病室に、5,6年生くらいだったでしょうか、止む無く義足となるであろう病気を患った少年が、他から移ってきました。大変明るい性格で、松葉杖を器用に使いこなしてはあちこちに出没し、患者にも見舞い客にもよく話しかけ、ちょくちょく度をこして母親や看護師に叱られたりしていましたが、大人の患者たちには随分かわいがられていました。

当時の私は、まだ入院直後で怪我のショックもあったのか、極めて非社交的で、周囲にも不遜な態度をとってばかりでした。そんな私には、その少年の明るさは鬱陶しいものでしかなく、ちょっかいを出されても無視を決め込み、「あの子と同じ病室でなくてよかった」と安心する毎日でした。

そんなある日のこと、私が何かの用で廊下を進んでいると、その少年の病室の開いた戸の隙間から、ふと、ある光景が眼に入りました。
少年の母親であろう女性が、少年の傍にたたずみ、ベッドに伏せたその少年とじっと手を取り合っているのです。静かに黙っている少年を見ることが意外だったのもありますが、「手を握り締める」という光景は、欧米の映画なんかでしか見たことがない私には、異様なもの感じたのでした。
私の記憶はそこで終わっています。

これは後になっての想像ですが、ひょっとしたら、少年の身体の一部を奪うことになる手術を間近に控えていたのかもしれません。少年と母親が、身を寄せ合って嵐から身を守ろうとする小鳥たちのように、じっとなにかに耐えていたのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


病気や状況に違いはあるのですが、偶然にも遠藤周作氏がそれと同じ内容のエッセイを書いているのを目にした私は、すぐにその少年のことを思い浮かべ、なんだか雷に打たれたような衝撃を覚えました。

 

白血病を患って、命の灯が小さくなりつつある夫と、その妻がじっと無言で手を握り締めている光景を 窓越しに目にした氏は、エッセイをこう結んでいます。

  
私は窓から離れ、その尊いものをこれ以上、冒涜しまいと思った。
 

女優さんとどうしたこうした、なんて考えてしまった私も、すこし襟を正して、車窓の外に目をやりながら、あの少年と母親は今どううしているのだろうか、と思いを巡らせました。

※ (遠藤周作 『生き上手、死に上手』 海竜社、ないしは  『笑って死にたい』 河出書房新社 )

                                                                                                                                                                                     2014年8月  租狸庵山人

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